創業は江戸時代。スタートは製陶業から。
マルヨシの創業は、江戸時代。日本六古陶の一つである「常滑焼」を生業とすることから、その歩みは始まる。
常滑焼の始まりは、平安時代末期にあたる12世紀初め頃。常滑には、やきものに最適な土が広範囲に分布し、さらには窯を設けやすい緩やかな丘陵地帯地が広がるという好立地条件があり、それが脈々と続く製陶業の歴史の礎となる。

また、常滑は水運にも恵まれ、伊勢湾に面した港から船で日本各地へ運ばれていった。その証拠にこれまで全国の遺跡から発掘された常滑焼は24,000点以上。その多くが、甕・壺・鉢といった大物で、発掘調査の結果からは、時の権力者たちが好み、権力の証として取り寄せ、活用したことが伺える。
常滑焼の象徴である「急須」づくりが始まったのは、江戸時代の後期と言われている。低温でも焼き締まり、焼くと水を通さない「特性」、常滑特有の朱色の本体に精緻なパーツ類を組み合わせる高い「技術」、そしてお茶を淹れるとまろやかな味わいになる「土質」などが絶妙に融合し、やがて「急須づくり日本一」とも称されるまでになる。

明治以降は、急速に需要が拡大した「土管」や「タイル」「煉瓦」などを大量に生産。ちなみに名建築・帝国ホテルに使われた「黄色い煉瓦」を製作する技術は、当時の日本において常滑にしかなく、この偉業は一躍常滑焼の名を国内外に知らしめることになる。
戦後になると、トイレや内装タイルなどの生産も加わり、そして製品のバリエーションも多彩になり、家庭用の園芸鉢や花瓶、招き猫や干支などの生産も盛んになっていく。

江戸時代後期に創業したマルヨシは、茶碗や急須などの日常づかいの器から、土管、タイル、煉瓦、そして工芸作品として評価される陶器まで、江戸、明治、大正、そして昭和へと長年に渡って製陶業を営み、老舗企業としての礎を築く。
海外展開へ。そしてペーパーマッシェ人形の成功へ。
昭和30年代に7代目当主(水野由吉)が参加したアメリカをはじめとする海外視察旅。海外旅行そのものが極めて珍しい時代に旅好きだった由吉は、好奇心の赴くままに積極果敢に海を渡る。通常なら当時の視察旅行は観光に終始するところだが、由吉の好奇心のアンテナは、現地の事業にも向かう。「日本で作って海外に輸出する、ものづくり事業の種はないか?」そんな発想で、旅を続けたという。

この海外視察旅で出会った「ペーパーマッシェ」というユニークな製法に強く惹かれた由吉が新たに起こした事業、それが「ペーパーマッシェ人形づくり」。現代にも残る、あの有名なメジャーリーガーの「ボブルヘッド人形」も、当初はペーパーマッシェ製だった。実は、このメジャーリーガーのボブルヘッド人形をマルヨシは製作。アメリカに納めていた。また、ペーパーマッシェ「スヌーピー」づくりの量産を請け負っていたという実績もある。

ペーパーマッシェ人形づくりは、アメリカやヨーロッパでの需要に応えながら量産化に挑み、その後常滑から製造拠点を韓国に移して、海外生産&海外市場開拓という事業モデルを確立。また、国内市場向けにも「五月人形」を製作。ペーパーマッシェ事業は、マルヨシ創業以来の売り上げを記録して、中小企業ながらグローバル事業を成功へと導いた先例実績となる。そしてこの事業モデルは、8代目当主(水野雅生)が挑んだ「雛人形づくり」にも受け継がれ、活かされていく。

業界に革新を起こす挑戦から雛人形事業の大成功へ。
8代目当主(水野雅生)が挑んだフィリピンセブ島工場での量産化の成功と、雛人形の頭(カシラ)の生産シェアにおいて最盛期に8割に達したという快挙。この背景には雅生の「不退転の決意」と「果敢な行動力」、それらを後押しした「運命の導き」と時代の潮流に乗る「先見の明」、そして業界を変える「マーケティングセンス」と利益率の最大化を図る「経営手腕」があった。
なぜ工場設立の候補地がフィリピンだったのか?それは7代目の由吉が、アジア各地を視察しての判断だった。フィリピンは宗教がカトリックであり、英語圏の国であったことから、価値観を共有できると思い決断。価値観さえ共有できれば、どんな困難も乗り超えられるはず!という信念が、その後待ち受ける幾多のハードルを打破していくことになる。フィリピンセブ島工場設立に向けての実務は、由吉の長男である8代目当主雅生が受け継いだ。
当時、独裁政権下にあった国家ゆえ、フィリピンでの工場設立は大きなカントリーリスクがあり、現地法人設立にも多くの制約があった。現実的に難易度が高すぎることから、ここに海外生産拠点を構える企業は、極めて稀だった。それでも雅生は、不可能を可能にする挑戦を続け、遂に1979年、従業員50名にてセブ工場をスタートさせる。

もちろん最初から順風満帆だったわけではない。スタートは試行錯誤の連続で、製品としてのクオリティを上げ、初めて日本の雛人形市場への出荷を果たすのは操業開始から2年後。後発ゆえの難しさがあったが、やがて大きな転機が訪れる。それは、雛人形の顔(カシラ)の型をつくる原型師「熊倉聖祥」との出会い。熊倉氏による型でつくったカシラは、その優雅な造形美、精緻な面相による表情、そして独特なオーラと存在感が相まって、誰にも真似のできない完成度を極めた。この型は熊倉聖祥の頭文字から「KS-1」と呼ばれ、その後、業界を席巻。カシラのスタンダードとなっていく。

注文が殺到する流れは止まず、それに応じて工場の規模も拡大。現地従業員数も増大(最盛期には最大◯◯人)。幸運だったのは、フィリピン人従業員の能力の高さだった。大卒の優秀な人材を採用することができ、そして報酬を高く設定したこともあり、従業員の労働意欲も高く、人形製作の職人としてのスキルは、限界知らずで、レベルアップしていく。それに比例して製品のクオリティも着実に上がり、市場での評価も最大級へ。その証拠に最盛期にはカシラのシェアは8割に達する。
日本のほとんどの人形メーカーや人形卸にマルヨシ製のカシラが提供され、そのコストパフォーマンスとクオリティの両立において革新をもたらし、以来、マルヨシは業界を根底から支える存在となる。その後、製品のバリエーションも増え、段飾りのミニチュアの道具等も生産する。

日本各地に現存する雛人形の多くが、今なおマルヨシ製のカシラであり、この事実こそがマルヨシの誇りでもある。この歴史的快挙を生んだ原型「KS-1」は今なお伝説として語り継がれる唯一無二の傑作であり、マルヨシにとってもKS-1は、事業成功の象徴とも言える。
また、雛人形事業で培った優美で繊細な工芸技術は、後に「絵付けステンドグラス作り」にも活かされ、それらを手がけた工芸職人チームは、浮世絵・襖絵・錦絵などの模写(オマージュ)も含む、数々のステンドグラスアート作品を創造する。

光と色彩が織りなす美しさの極みとも言うべき作品は、ステンドグラスの専門家から「今後誰にも到達できないクオリティの域にある」と称賛される。ホテルや公共施設などを彩るアートとして、各種イベントでの演出アイテムとして、企業ブランディングに活用するプロモーション素材として、そして装飾建材として等々のほか、国内外のアート&工芸品愛好家向けに「希少コレクションアイテム」として提供される。

新たな価値創造をめざすチャレンジが始まる。
雛人形事業を継いだ9代目当主(水野雅之)は、雛人形業界に残る旧態依然の商習慣やものづくりの現場の非効率な工程などにメスを入れ、大胆な業務改革を実施する。着実な成果を挙げたが、雛人形市場の停滞の流れは続き、大きな決断を迫られることになる。
長年続いた雛人形事は、完全撤退へ。フィリピン工場をたたみ、国内の営業部隊も解散。ただ、業界に革新を起こした当事者としての役割を果たしたい!という想いで、KS-1については国内の雛人形メーカーに無償で提供。事業は無くなったが、マルヨシが生んだ唯一無二の価値(秀逸な原型によるカシラ)は、今なお生き続けている。
雛人形事業で築いた財をもとに、現在は不動産や株式などの投資事業を行いつつ、新たな価値創造をめざすチャレンジを開始。さまざまな新規事業の可能性を探りながら、将来的な事業柱を育むためのトライアルを続けている。
その一つが、「3Dスキャニング&モデリング」「デジタルツイン」「モバイルマッピング」などの3Dソリューション分野。伝統工芸から最先端DXへ。ドラスティックな業態替えチャレンジだったが、これに関しては実証実験的なトライアルに終わり、3Dスキャナーなどの資産は競合企業に譲渡。今は再び、未来に向けての新規事業模索を行っている。